おおはらのブログ

ひとりごと

E T V特集「敏感くんたちの夏」を視聴した感想

「異なる他者と生きる」

 海外の調査では5人に1人の子がH S C(Highly Sensitive Child)らしい。5人に1人であるならば、自分もそうかもしれない。僕は、幼い頃から人からどう見られるか、思われるかを過剰に気にしていた。人見知りで輪に入れず、習い事を辞めたことが2度ほどあった。小さい頃は毎日のように泣いていたし、悲しんでいる人を見ると自分のことのように悲しくなる。

 それは確かに、生まれ持った性質でもあると思う。しかし、自分の場合は家庭環境や経験が大きかったように思う。家庭では、自分の気持ちを聞いてくれることはなく、勝手に決め付けられ、力によって押さえ込まれた。また、アトピーや喘息、大火傷をおったこと、そうしたことが人からの視線を気にすること、他者の苦しみへの共感性を育んでいたと思う。

 番組では触れられていなかったが、育った環境や経験との関連性はないのか気になった。環境との関連性を考えたのは、かなさんが自分の意思を伝えられるようになってきたのが、感情を伝える方と出会ったことが大きかったからである。つまり、人は環境によってーーそこにいる人とのかかわり次第でーー変わることができるのだ。

 また、最後の方で、元気くんが、家族は自分のことを理解してくれてありがたい、といったことを話していた。それを聞いて、生きていく上で、いかに安心できる環境が大切であるかと思った。安心できる環境とは、その人のことを理解し、「それがあなただよね」と受け入れてくれる人がいると言うことだろう。

 そう考えると、H S Cの子どもが通うことができない学校というのは、どれだけ一人ひとりのこと(違い)を理解し合えているのだろうか。ある教育学の先生は、「日本の学校は多様性が不可視化されている」と述べていた。不登校の子をどうしたら学校に通わせるかといった「適応」がしばしば語られる。しかし、どうしたら子どもにとって、学校が安心できるようになるかを考えることが重要ではないか。

 最後に、元気くんのおばあちゃんが終わりのシーンで語ったことは感動した。今まで自分にとっての当たり前を壊し、「普通」ではない彼のことを受け入れることは容易ではない。そこには、相当な葛藤があっただろうし、理解しようという努力がなければなし得ない。おばあちゃんが変わることができたというのは、私たちに一筋の希望を示してくれたように感じた。

好きな映画

久しぶりに金曜ロードショーで「天使にラブソングを」を観た。初めて観たのは、小学校の音楽の時間だっただろうか。それ以来、ぼくはこの映画が大好きだ。

 修道女たちが歌を通して、自分を表現し、解放していく。そして、お互いの個性を響かせあう。その姿を見るたびに胸が熱くなる。突然やってきた一人の異端者とのかかわりの中で、彼女たちが変わっていく。普段から修道院の厳しい規則を守りながら生活してきたからこそ、彼女たちは表現することに、大きな喜びを感じたのだろう。

 ぼくは修道院で生活したことはない。だけど、学校、あるいは家庭という名の修道院で生きてきた。ときに物理的に体を縛られ、規則のもとに、自分らしく生きることを制限されてきた。この映画に強い感銘を受けるのは、きっとこれまでの自分の経験があったからだろう。(※修道院を批判することが目的ではない)

 中学生になってからは、合唱コンクールの時間が好きだった。中学1年生のときに、音楽の先生だった担任に指揮者を勧められ、そのあと学年全体の指揮者もやった。あれほどの気持ちよさを、今までに味わったことはあまりない。勧められた理由はわからないが、あの経験がぼくを成長させてくれた。

 これからチャンスがあれば、地域のサークルなどで合唱をやりたいと思っている。

あの時のやさしさ

眠れない夜に思い出すことがある。

 小さいころぜんそくの発作が止まらないとき、背中をさすってくれたこと。アトピーのかゆみで眠れなかったとき、となりで心配してくれたこと。

 散々ひどいことをされたし、偏見に満ちていて大嫌いだけど、ただ、あのときそばにいてくれたこと、それだけはよかった。

 自分は多くの苦しみを背負っていきていた。そのたびに、人のやさしさにも触れてきた。そうした経験が、(よくもわるくも)今の自分をつくっている。自分も困っている人がいたら、そばにいられる人でありたい。

 だけど、同じくらいいろんな人を傷つけてきた。相手のことを理解しようとせずに、自分が傷つくのを恐れて、傷つけてきた。そのことから目を背けてはいけないし、背けても何も生まれない。

 特に何が言いたいということでもない。何となく今の自分に必要なことだと思い、文章に起こしてみたかった。だってただのひとりごとだもの。

進路を決めること

 ―進路を決めるとはどういうことか、進路とはどのように決まるものなのだろうか。休学をした半年間、職業を選択する以前に、というより同時に進路の決め方そのものについて考えて悶々としていた。

  進路を決めるに当たり、大多数の人は自己分析で適正な職種を選び、企業研究を行い、スーツを着て面接をするいわゆる「就活」をする。しかし、僕は「就活」のあり方に対する嫌悪感(自分に対する甘え)から「就活」を避けてきた。「就活」によって人事はどれだけ自分のことを理解してくれるのだろうか。「就活」は会社に対する適正なのだろうが、必要/不要な人を選別している感じがどうも嫌だった。というか、そもそも「就活」で評価される「コミュニケーション能力」などが嫌だった。他にも様々な理由から「就活」をしてこなかった。

 「就活」をする代わりにというのもなんだが、この半年は進路を考えるにあたり、これまで自分がどのような社会でどのように育ってきたのか、大学4年間で何を学んできたのかをずっと振り返っていた。きっとその人が大事にしている、大事にしてきたいものって、これまでの人生があったからこそ大事になっているのだろう。

 これまでのことを振り返っていたのは、自分が何を大事にしていて、これから何を大事にしていきたいのかを明らかにする作業だったように思う。そして、進路というのは、その人が社会で何を大事にして生きていきたいかによって決められるものだろう。 

 そう考えると、僕にとって進路はすでに決まっていた。これは決してスピリチュアル的な意味ではなく、進路はこれまでの積み重ねによって規定されるという意味で、すでに決まっていたということである。しかし、その選択になかなか踏ん切りがつかなかった。逆説的だが、踏ん切りがつかないような職業だからこそ、その道に進まなければいけない気もしている。

 そんな中、その道でがんばっている人、一緒に可能性を模索して背中を押してくれる人と出会うことで、少しずつ可能性が開けてきたし、そのおかげで少しだけ踏ん切りがつきそうである(あくまで少しだけ)。

 進路について相談にのっていただくたびに、自分も誰かのことを応援できる大人になりたいと思う今日この頃です。さて、そろそろ再再再履の東洋史の授業に行こうかなぁ。

落書き

   僕が教育実習に行ったとき、授業中ほぼ毎回、落書きをしている子がいた。その子は自閉症で、自分の世界に入りがちな子だった。授業中も先生の話を聞かないで落書きをしているので、何度も先生から叱られていた。あるとき、先生も痺れを切らしたのだろうか、落書きをしているその子に対して本気で怒った。その子は涙を流していたので、僕はその子にテッシュを手渡した(僕のゼミでは習慣になっている)。すると、先生は「今は指導中だから、そんなことをするな」と僕に怒った。僕にとっては涙を流している子がいたら励ますのが当然のことであった。この時、自分は先生にはなれないと思った。

 さっき、僕は再再再履修のテストを受けた。東洋史の内容なのだが、そもそも上級者向けで、授業がほとんど理解できない、それに加えて(知っている前提で)事実を淡々と話すだけで、本当につまらない。そのため、授業に出るのが苦痛で履修しても授業に耐えることができずに、休んでしまっていたのだった。今回も授業には2回しか出なかったが、友達にプリントを印刷させてもらって、持込み可のテストを受けた。案の定、テストはできなかった。テスト終了の時間を待つ僕は、何となく落書きをしていた。これまで授業ではほとんど落書きはしたことがなかったのだが。僕は、カタカタとペンで回答を記述する周りの人から、ダメな自分を切り離して自分の世界に入ろうとしていた。つまり現実逃避である。また、落書きの登場人物に自分を励ましてもらおうとした。

   そして、落書きをしながら、僕はふと教育実習で出会ったあの子のことを思い出していた。実習で出会ったその子はどうして授業中に毎回、落書きをしていたのだろうか。多くの人は、その子が自閉症だからというのかもしれない。確かに、それは事実なのだろうが、果たしてそれだけなのだろうか。そして、その子に「もうしません」を言わせることは果たして正しい指導といえるのだろうか。

   その子の心配をする前に、まずは自分のことを心配しろと言われそうですが、僕にとってはその子の心配は自分の心配でもあるので、やっぱりその子のことを僕は考え続けていきたいです。

         f:id:kisomono:20180130165515j:plain

   それにしてもなぜこんな落書きをしたのだろうか(笑)

人間関係の難しさ

   価値観が全く同じ人はいない。そんな人がいたら僕はその人のことは信じないだろう。他者と話をしていて、客観的に(といっても主観は排除出来なのだが)その考え方はどうなのか、その人にとってこうしたほうがいいのではと思うことは往々にしてある。そんな時、こうしたほうがいいと思ったことを言わずに「それもあなただよね」ということが相手のことを受け入れる、あるいは尊重するということなのだろうか。

   今までの僕は、ある種「それもあなただよね」と他者にこうしたほうがいいと思うことを言わない、という以前に他者への無関心からこうしたほうがいいということなど思いもしなかった。だからこそ、僕はある種寛容であれたし、他者にとって当たり障りがなくかかわりやすい、いわゆるコミュ力の高い人を形成してきたと思う。

   しかし、良くも悪くも、この1年間卒論である人物の思想に迫る中で、これまである人のことを理解したと思っていたことは表面的で一部分にすぎず、またこれまで他者とのかかわりは極めて表面的だったことを痛感させられた。だからこそ、自分はもっと他者のことを知りたい、深くかかわりたいという思いを持つようになった。

   そのことが今の僕をひどく悩ませている。「あなたのことを思っていなかったらこんなことは言わない」という言葉を盾に、僕は人に価値観や行動を押し付けてしまっているのではないかまた、僕が思えば思うほど、相手に対しても同じことを求めてしまう自分がいる。相手は自分に関心を持っているのだろうか、もっと関心を持ってほしいというように。

   こんなことを考える度に自分はなんて面倒くさい人間なのだろうかと思ってしまう。今までのほうが楽に生きられたのではないかと。本当に人間関係って難しい。

得体のしれないもの

 卒論がひと段落ついてからというもの、得体のしれない不安や焦りにおびえている。これがなんだかよくわからない。熱中しているものが終わったとたんに、何かしらに熱中しないと不安になる。きっとそれもあるのだろうが、不安の原因はそれだけなのだろうか。

 きっと不安の原因は一つではないし、様々なことが絡み合っていて複雑なものだと思う。今自分がどのような状況に置かれており、自分が何に不安を感じているのか。こうして文章にすると不安の正体も少しは分かりそうだし、何より、こうして何かの形で表現しないと不安に押しつぶされてしてしまうと思う。

 “表現する”ってきっと人に伝えるだけが目的ではなく、自分の思考を整理すること(つまり自分という人間を理解する)や、自分の感情に押しつぶされないためという意味もあるのではないかとふと思った。そもそも自分の思考が整理されたときに初めて人に伝える/伝わることができるのではないか。

 悩みや不安のみならず、日々感じたり考えたりするモヤモヤをはっきりさせるため、思考メモとして日記感覚で書いていこうと思う。